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未読書日記1 『ウィトゲンシュタイン――「私」は消去できるか』

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これからごくたまに「未読書日記」なるものを書くことにしました。
ぱらぱらと中身を一瞥しただけでほとんど読んでいない、あるいは途中までしか読んでいない、という本について、その時点での感想なり印象なり紹介文なりをテキトーに綴るというもの。

なぜ「未読書」なのか?
第一に、買ったはいいけどなかなか読む機会がない本が山積み状態になっているから。このまま積んでいるだけではもったいない、ちゃんと読めずとも、何らかの形で消化しよう――というわけです。
また「未読書」の利点は、どうせまだ全部は読んでいないので、主観と思い入れと乏しい知識に基づいて好き勝手に書ける気楽さにあります。隅々まで読んだからにはそれなりに気合を入れて書かねば、という気負い、義務感から逃れられるのが良い。

さて、1発目は『シリーズ 哲学のエッセンス ウィトゲンシュタイン――「私」は消去できるか』(入不二基義著 NHK出版)。さっき読み始めたところ。
このシリーズ、非常に気に入っています。まず1冊120ページ前後というコンパクトぶり。その内容も「エッセンス」というだけあって、啓蒙書にありがちな「これ1冊で○○の全てが分かる!」といった知識のみを売りにする総花的で薄味なものではなく、1人の哲学者の仕事の核心のみに徹底的に光を当てて解剖し、考えさせる、というコンセプトのようです。難解な論理もできるだけ平易な言葉で語られていて、読みやすいですよ。これまでに読んだうちでは『クリプキ――ことばは意味をもてるか』(飯田隆著)が最高に面白かった。オススメです。

入不二氏は青山学院大の教授。ずっと前に紹介した『時間は実在するか』(入不二著 講談社現代新書)の著者近影もそうだったけど、愛猫を抱いた写真がこの人のトレードマークらしい。
シリーズのコンセプト通り、冒頭でいきなり「この本のテーマはウィトゲンシュタインの『私』をめぐる思考を追いかけることであり、それのみに集中しようと思う」と宣言。追いかける姿勢についても「ウィトゲンシュタインの『私』をめぐる思考を、ただ一つの観点からのみ追いかける。その視座・観点とは、ひとことで言えばこうなるだろう。〈強力で特異な『私』というあり方は、強力で特異であるがゆえに、消え去り見えなくなる〉」と限定しています。テキストを大本命の『論理哲学論考』に絞っているのも順当なところでしょう。

ウィトゲンシュタイン哲学の基底にある考え方を実感するために序章で紹介されている、大乗仏教の経典の一つ『維摩経』にある寓話が興味深い。主人公・維摩が「不二の法門に入る」とはなんぞや?という質問を32人の菩薩に順々に尋ねていく話。入不二氏のペンネーム(?)の由来もこれらしい。最初の菩薩は「生じることと滅することが二である。ところで、生じることなく起こることがない場合には、滅することは全くない。法は無生であるとの確信を得ること、これが不二に入ることです」と答えます。「二」というのは、「生と死」「幸と不幸」みたいな二項対立が存在している状態のこと。生じたものは必ず滅するけど、そもそも生じなければ滅することもない。生じるとか滅するとかいう対立を乗り越えた境地が「不二の法門に入る」ということだ、と教えてくれるわけです。2人目以降の菩薩も「世俗的なもの・超俗的なもの」「功徳・非功徳」などについて同様の説話を行うんですが、32人目の菩薩は最後にこう言います。
「あなたがたが説いたところは、それもすべて二なのである。なんらの言葉も説かず、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということも言わない、これが不二に入ることです」
そして維摩に、何か思うところはあるかと尋ねたものの、維摩は沈黙したまま。「無語」をあえて言葉で説くという矛盾を犯しながら「不二」の境地を「示した」32人目の菩薩をも乗り越えて、めでたく不二の門に入ることができましたとさ、というお話です。
「語りえないものについては沈黙しなければならない」という『論理哲学論考』の有名な最後の一文と、言わんとすることはほぼ同じと考えていいでしょう。

「私」を「世界」の中の一存在にすぎないと考える実在論と、「私」の心に浮かぶ表象こそが「世界」のすべてであり、真に存在しているのは特異な「この私」だけなのだ、という独我論は、表裏一体の関係として古今の哲学者に論じられてきました。しかしながら、独我論の側も「私」をひとつの“対象”として言葉で語ろうとする限りにおいて、世界の中の一存在に位置づけているにすぎない、とも言えます。それを語っている「この私」そのものについて語ることは、どこまでいっても不可能。つまり「私」は「世界」の中にあるのでもなく、「世界」が「私」の中にあるのでもなく、「世界の限界」としての形式が「私」なのだ――ということ。だけどこのように言葉で語っている内容に意味はない。論理の体現である言葉で「世界の限界」を語るには、その内側と外側を語れるのでなければなりませんが、論理形式の全体とぴったり一致している「世界」の外側を語ることはできません。だから「語る」のではなく、「示す」ことしかできない――。『論考』についてウィトゲンシュタイン自身、上りきった後のはしごは不要であることになぞらえて「読んだ者はこの本を投げ捨てねばならない」と書いているように、真理を言葉によって語られた内容そのものから知るではなく、そこにか書かれている言葉を通して「悟る」ことの意味。まさに、32人目の菩薩の説話を思わせます。

そろそろ本題の「私」についてさらに掘り下げて考えていきたいところですが、なにぶん未読なものでここらで失敬。中途半端な考えを中途半端なまま書いてしまいました。だって未読だからしょうがないもん。と、いくらでも言い訳ができるのも未読の良いところ。
それにしても「言語」「世界」「論理」「私」…。哲学周辺に群がる野次馬にとって、いずれも興味は尽きないネタです。早く続きが読みたい。
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コメント

コメント(9)
No title
哲学、実は好きです。って、嘘でしょうって、突っ込まれそうですが、好きだったんですよ、学生の頃は・・・。でも学問から遠く離れてしまったので、なかなか難しい本には手が出ないんですね。

jyo**ou42

2006/06/19 00:12 URL 編集返信
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上記のちんぷんかんぷんさも面白く読めます。哲学的観念小説「死霊」も好きでしたね。誤謬のない未出現宇宙というのを想起させられました。出現しなければ誤謬もない・・・。

jyo**ou42

2006/06/19 00:18 URL 編集返信
No title
上等さんも哲学好きですか。だったら、この本なんか是非読んでいただきたいですね。専門的な知識は持ち合わせていなくても、誰もが少しは不思議に思ったことがある疑問がベースなので、分かりやすいと思います。『死霊』はいつか読みたいと思っていながら、なかなか手が出ません…。

Jinne Lou

2006/06/19 01:50 URL 編集返信
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未読なのにお薦めですか(笑)読んでみましょう。注文しました。学生時代、大森荘蔵の分析哲学もちょろっと学びましたが、やはりちんぷんかんぷんでした。でも面白かったですよ。

jyo**ou42

2006/06/19 22:13 URL 編集返信
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2/3くらい読みました。普通ならとっくに読み終わってる分量ですが…。仕事などの合間に細切れに読むので、なかなか進まない。大森荘蔵も好きですよ。『流れとよどみ』『時は流れず』が面白かった。

Jinne Lou

2006/06/20 02:20 URL 編集返信
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・・・学生のころ、張り切って『哲学探究』を買い、ちんぷんかんぷんで、本棚の肥やしにしてしまったことを思い出しました。。。

tom

2006/06/22 13:50 URL 編集返信
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『論考』はわりと読みやすかったけど、『探求』はまだ手が出ません。そのうち『青色本』などとともに挑戦してみたいです。

Jinne Lou

2006/06/23 01:16 URL 編集返信
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トラバありがとうございました。真理を言葉で語ることができないという話から、斉の桓公と車大工の話(車作りのコツは言葉で伝えられず、自分(車大工)があの世に持ってくしかない。桓公様が読んでいる聖人の書物の肝心な部分は、聖人があの世まで持っていってしまったのだから、それは聖人の残りかすみたいなものだ)を思い出しました。

shchimya

2006/07/15 10:16 URL 編集返信
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ご訪問ありがとうございます。そのエピソードは知りませんでした。なるほど、似た感じの話ですね。ただ「私」や「今」について、当の私がいま語ることが本質的に不可能であることとは、ちょっと次元が違う気もしますが。今後ともよろしく。

Jinne Lou

2006/07/15 13:08 URL 編集返信
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