FC2ブログ

「たぶん神はいない」

イメージ 1
「神は妄想である―宗教との決別」リチャード・ドーキンス著
この本については未読書日記で書こうかとも思ったけど、未読どころかまだ入手すらしていないので、さすがにやめました。「利己的遺伝子論」を広めたことで知られる、リチャード・ドーキンス。筋金入りの無神論者でもある生物学者が、宗教に敵意をムキ出しにして「神は妄想である」ことをこれでもかこれでもかってくらい徹底的に論証しようとした大著らしく、興味をそそられる。そのうち読みたい一冊です。







これを思い出したのは、以下のニュースを知ったから。
英国の公共交通機関で「無神論」キャンペーン

イメージ 2
[ロンドン 8日 ロイター] 英国の無神論者が今週、同国の公共交通機関で「神は存在せず」と通勤客らに呼び掛ける広告キャンペーンを立ち上げ、話題となっている / 英国全土の都市で運行する800台のバスとロンドンの地下鉄の車内に貼られたポスターには、「おそらく神は存在しない。心配することを止めて人生を楽しもう」と書かれている / 無神論推進派で作家でもあるリチャード・ドーキンス氏は、宗教に関心を持ち過ぎることが幻滅につながるということを示す手助けになればと、今回のキャンペーンを支援する理由を語った / 同国の宗教界では、英国教会の存在が大きく、一部の司教らが議会の上院に相当する貴族院の議席を占めている / コメディアンで同キャンペーンの主催者でもあるアリアン・シェリン氏は、車内のポスターが通勤客らに笑いをもたらすことに期待を寄せているとし、「とても楽天的で緩やかな哲学的キャンペーンだ」と語った。

昔からキリスト教圏では「神の存在」を論証しようとしたり、逆に存在しないことを証明しようとしたり、といった営みが繰り返されてきたようです。とくに存在論的証明ってやつには、傑作な屁理屈が多い。

アンセルムス(だったと思う。たぶん)による「証明」は、たしか次のようなものでした。
「神」とはその定義からして、完璧な存在でなくてはならない。ということは、あらゆるプラスの価値を含んでいると考えられる。そのプラスの価値の中には、「存在する」という価値も当然ながら含まれているはずだ。よって、「神は存在する」。
(単純化すれば「存在する者は存在する」というトートロジーにすぎないわけですが)

あるいは、誰だったかは忘れたが次のような「証明」をした人もいた。これもうろ覚え。
神が本当に存在するかどうかはともかく、存在を信じる場合と信じない場合とではどっちが「得」だろうか。
仮に神が存在するならば、その存在を信じる者には無限の幸福がもたらされる。逆に存在しなければ、信じる者は有限の損失(信仰に費やす時間や労力など)を被る。だが有限の損失を恐れて、無限の幸福を得る可能性を放棄することは不合理だ。したがって、神の存在を信じたほうが「得」である――。

逆に、存在しないことを「証明」しようとする人もいた。
こちらを参照


神のことでムキになる感覚は、われわれ平均的な日本人にはちょっと理解しがたい。神社に行っても寺に行っても普通に手を合わせる人だって、だからといって一神教圏の人々のように具体的な存在物としての「神」を信じているわけではない。逆に「神なんかいるわけない!」と強硬に主張する人もあんまりいない。

ビル・メイハーという人によれば「『熱狂的な信者』の反対は『熱狂的な無神論者』ではなく、神がいようといまいと気にしない『穏便な皮肉屋』」だそうで。http://x5.nobody.jp/bin/ll?062899800.gif
かく言う私も神などまずいないとは思ってますが、米国人のようにガチで信じている人が周囲にいないので、わざわざ主張する気にもならない。このへんは、むしろ日本人のほうが高みの見物で論争を楽しむことができそうです。ただし、宗教がもたらす弊害のあまりの大きさを真剣に憂えるドーキンスの気持ちは分かる気がしますがね。



「人間が神の失敗作なのか、それとも神が人間の失敗作なのか」
――アルベルト・アインシュタイン
スポンサーサイト



コメント

コメント(20)
No title
パレスチナの民が殺されたのに、アッラーは何をしていたのでしょうね。

ハザマ

2009/01/15 22:08 URL 編集返信
No title
たぶんそのうち怒りが降り注ぐでしょう。無神論者の私がこんなこと言うのもなんですが。

Jinne Lou

2009/01/16 01:21 URL 編集返信
No title
一言メッセージ :われわれはどこから来て、どこへ行くのか
---

こういうのは、私は道具(他人)に聞いて難しくされてはならないと思っています。
というのは、

「我ら「これ凡ての物)は神より出て、神によりて成り、神に帰すればなり、栄光とこしえに神にあれ、アァメン」
(新約聖書ロマ書11章36節)

と聖書にありますが、こういうのは、こちらの階層(レイヤ)からでは、あちらの階層に移らなければ、階層が違うこちらでは意味がないし、見えても触れることができないし、調べても意味を取り出せないし、みんな今まで通りです。
これは今までも、今も、これからもです。
ほんと、これは実際もそうですよね。実際に何も変わりません。実際、これは階層が違えば今まで通りなのです。

Life & peace

2009/01/16 13:27 URL 編集返信
No title
ところで、こちらでは、
「たぶん、神はいない」
と言われて記事を書かれましたが、それも正解だと思います。その階層(レイヤ)では、その答えになるからです。
では、どうしてそうなるのか?
私は、人生は三つのコースから選ぶようになっていると気づきました。

■三つの人生コース
一つ、生まれたままの規定値(獣のまま)の人生コース。
二つ、学習して学習して迷路のまま終わる人生コース。
三つ、クリスマスの福音を受け入れて救われる人生コース。
の三つです。

「たぶん」と言われたのは、二つ目のコース、もしくは移行期の状態にあると思われます。一つ目や三つ目では迷いがないため「たぶん」と言う言葉は入らないからです。

解決策は、この三つの人生コースを決めるのは人の自由意志なので、悩んでも良し、悩まなくても良しです。そして、その事に気づいて、人は自分に思い詰めないこと、他人に押しつけない事だと考えています。

Life & peace

2009/01/16 14:52 URL 編集返信
No title
ただ、私が述べた三つの人生コースは、三つ目以外を選ぶと、以下のような問題が出ます。

一つ目は、獣のままなので、その人の人生は使い捨てられる人生です。本人はその人生コースで収支計算が納得できるか否か? ゴリラは夕日を見て哀愁を感じる振る舞いをすると聞くが、真実はゴリラでないので分かりません。

二つ目は、不明は答えにならないので死ねない。迷って悩んでも、結局、結果は一つ目の人生コースと同じになる。これをどうするか?

だから、この選択だけは他人に頼れません。自分の自由意志で決めるのが世間の仕組みだと思っています。

私は、人は人生で自分はどの人生コースを選ぶか?
一つ、その選択の自由が保証されていること。
二つ、その自由選択を主張する理由が確立していること、

に気づきましたよ。
自分がいる階層以外は天才アインシュタインでも隠されて見えなかった階層分けの仕組みが、その理由の正しさを立証する証です。

Life & peace

2009/01/16 15:35 URL 編集返信
No title
というわけで、

哲学は「人生で道具は壊さないで大切に使いましょう」を研究する学問でこの世では大切な学問ですよ。これは一つ目の人生コースを選んだ方への参考意見です。

宗教は、「世間で人生の悩みを共有して気休めする環境を提供する所」を研究する大切な学問です。これは二つ目の人生コースを選んだ人への参考意見です。

という見方はいかがでしょうか?

Lefe & peace

2009/01/16 16:19 URL 編集返信
No title
理系の私は無神論者ですが、悪いことをやったら、
誰かが裁きを下すと信じたいです。

確か、インドで有名なタタ財閥は「ヒンズー教ではなく、
ゾロアスター教なので、成功している」というのは分析した記憶があります。

かいざぁー

2009/01/20 04:36 URL 編集返信
No title
>カイザーさん

人間を裁けるのは、やはり人間の理性と法だけでしょう。人間は不完全であるしかなくても、どこまでも完全に近づこうと努力する生き物です。

Jinne Lou

2009/01/21 01:14 URL 編集返信
No title
人間を裁けるのは、やはり人間の理性と法だけでしょう。
---

そうですね。
でも、それは人間が暮らす世界はみんな人間に任せられているからでしょう。
しかし、

「人の為し得ぬ所は神の為し得る所なり」

と聖書にありましてね。この世で犯した罪悪が人に見つからなくて裁かれなければ、あの世で神が裁かれます。

「活ける神の御手に陥るは恐ろしきかな」

と言う聖書の言葉がありました。
聖書は抜け道がない。でないと、悪者は人に見つからなければ悪行のやり放題です。しかし、これはそうは問屋は卸しません。「天網恢々疎にして漏らさず」と言う言葉もありです。だから、人が神はないと言っても神は人の自由を妨げないよう隠れて働かれる。

また神は出しゃばりではない。この世のことで人がやった事は人の特別な申し出があるか、余程でない限り神は人に任される。これがこの世の仕組みではないかと私は思っています。この世は「人間の厳しい学習の場」と言う理屈からです。

-

2009/01/21 15:29 URL 編集返信
No title
と、そういうフィクションを人間がかりそめに真実だと思いこむことで、人間社会の安寧が保たれてきた。神や宗教が有用だとすれば、そういうことだと思います。

Jinne Lou

2009/01/22 01:35 URL 編集返信
No title
宗教?私は宗教や哲学で生活は考えても人生は聖書で考えます。宗教や哲学の学者の教えは人生の行き先が不明になるためです。

フィクションの選択肢を選択すれば、生活は豊かになります。この世本位であの世の恐れから解放される。人生は行き先不明の行方不明のままでもです。
でも、

「人はなぜ生きるのか?」

はどこまで言っても不明のままです。解決はなしとなります。
でも、
■三つの人生コース
一つ、生まれたままの規定値(獣のまま)の人生コース。
二つ、学習して学習して迷路のまま終わる人生コース。
三つ、クリスマスの福音を受け入れて救われる人生コース。
であげた三つの人生コースは、それぞれ立派な理屈が立てられて選択の自由が保証される。

そして、この選択はすべて自己責任だと言うわけです。

jimmyj240117

2009/01/24 02:23 URL 編集返信
No title
ところで、上の一つめ、二つめのコースでは人殺しも合法です。そのコースの社会は神を排除する世界だからでしょう。しかし、私はやはり三つめのコースに決めましたよ。三つ目のコースを選ぶ人はとてもいい人が多いから...。例外はあってもです。

哲学や宗教の社会は偉い先生が多い。でも、偉い先生から教えられて、いくら勉強しても、結局、人生は闇のまた闇で不明なまま息絶える。不明は解決ではない。

で、人生が旅なら旅のツアーを導く引率者として、私は三つめのコース、救い主イエス・キリストを差し出す聖書を選択したのです。
というのは,不明だから勉強しても死ぬまで不明で闇のまた闇で息絶えるのは、なんやかんやと言っても、やはり異常だと思ったからです。

jimmyj240117

2009/03/31 12:37 URL 編集返信
No title
jimmyj240117さんのおっしゃることは意味が分からなすぎて返答しづらいんですが、とりあえず疑問点を列挙すると以下のようになります。

・「宗教や哲学で生活は考えても人生は聖書で考えます」ということですが、聖書を教典とするキリスト教やユダヤ教は宗教の一種ではないんでしょうか。

・「フィクションの選択肢」とは具体的に何を指しているんでしょうか。それを選択すると、どうしてあの世の恐れから解放されるんでしょうか。

・「三つの人生コース」は何を根拠に挙げられたものでしょうか。たとえば「学習して迷路から抜け出す人生コース」も考えられると思いますが、どうして除外されているんでしょうか。「クリスマスの福音」とは何を意味しており、それを受け入れるとどうして救われるんでしょうか。

Jinne Lou

2009/04/01 00:30 URL 編集返信
No title
・一つめ、二つめのコースではどうして「人殺しも合法」なんでしょうか。個人がどのコースを選んでも法律は変わらないと思いますが。

・三つめのコース「福音を受け入れて救われる」というのはまさに宗教的な人生観だと思いますが、あなたが否定する「宗教で人生を考える」こととはどう違うんでしょうか。

・あなたのコメントは、この記事のテーマである無神論や神の存在証明とどう関係しているんでしょうか。

Jinne Lou

2009/04/01 00:30 URL 編集返信
No title
結局は、自分が「精神」と「肉体」とでできており、
死んでも自分の「精神」つまり「魂」が存在し続けると考えて、
<現在>人生を生きているのならば、
神の存在を認めている人と、ほとんど、実質は、精神構造には差異はないと思いますね。

あなたは、これに対しては、判断保留の不可知論者ですか?
釈尊は、無記の判断停止でした。
それは、無意味な議論だからです。
現実の苦悩から救われるためには、無意味な議論と、教えています。

イエスちゃん

2010/06/07 17:38 URL 編集返信
No title
私も無意味だと思っていますが、あえて言えば、肉体が滅びれば精神も消失すると考えるのが自然です。そもそも精神が肉体から独立して存在できると考えるのは誤りだと思います。

Jinne Lou

2010/06/08 02:16 URL 編集返信
No title
無神論者といういい方からして変なんですよね。
言うならば有神論者。
僕の考えでは、人類及びその中の個人はマクロ的な宇宙物理学の中では決定論的に何の自主性も有しないのだと言うことを、非常に単純明快・直感的に表現し、且つそれによって無駄な行動を省こうとする一種の人類共通の合言葉であると思います。物を持ち上げるときによっこいしょと言うのとおなじ。

高晋

2010/06/09 16:48 URL 編集返信
No title
『そもそも精神が肉体から独立して存在できると考えるのは誤りだと思います。』

本当にそうです。日々実感しております。

脳が老化して、心が老化する。(同じことを、裏と表から表現)
昔の若いころには、こんな自分ではなかった、
記憶と現実と今の思いの境界線が段々に曖昧になっていく。

自分が何をしているのかが途中から解らなくなる。
<自分と言うもの>も、
脳が造り出している現象、
脳が<必死で維持している>危うい綱渡りの幻である。

これの究極が、脳の停止・崩壊による<肉体の死>でしょう。
自分の肉体の中で確実にその方向に進んでいる。

この様な有限な存在の<生き方>に、意味を与えるもの、
それは、ここでの会話を成立させるものでもあり、
それを、小生は<神>と呼びたいのです。

イエスちゃん

2010/06/10 06:00 URL 編集返信
No title
jimmyj240117さん

新約聖書も旧約聖書も、
人間が書いた、<その人の信仰>を物語を手段として表現した神学書
な訳です。

だから、その様な信仰の人が過去に存在した、
というだけで、
その信仰の内容そのものは正しいかどうかは、誰も保証していません。

新約聖書だけ考えても、<どの文書を聖書とするのか>は、
初期カトリック教会が、<数百年かけて>人為的に決定したものです。

当然、これから変更する事も可能です。
それも神の導きです。神は常に働いていらっしゃいますので。

そのような視点が重要だと感じました。

蛇足ですが、小生はクリスチャンです。プロテスタントの。

イエスちゃん

2010/06/10 06:14 URL 編集返信
No title
>satoatusi2006さん

クリスチャンでも精神は肉体と不可分だとお考えになるんですね。
人間が生きることにアプリオリに「意味」があるとは思いませんが、それを与えられる存在があるとすれば生を営む人間自身のみであり、そこに「神」のような第三者は必要ないと考えます。

Jinne Lou

2010/06/12 01:32 URL 編集返信
コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

Jinne Lou

Author:Jinne Lou
個人>国家
公共≠国家

月別アーカイブ