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未読書日記23 『知性の限界』 高橋昌一郎著

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以前に紹介した『理性の限界』の続編らしい。
前作ではアロウの定理ハイゼンベルクの不確定性原理、そしてゲーデルの不完全性定理という、それぞれ異なる学問分野の話を「理性の限界」という切り口でまとめている点がユニークで、非常に面白かった。今回も期待して購入したのだが、本書のほうは前回ほどコンセプトやモチーフが明確ではなく、「知性の限界」に関して多岐にわたる内容を茫漠と書き連ねた印象だ。それでもこの手の内容の啓蒙書としては平均水準以上に面白いことは確かだが、前回の売れ行きが予想外に良かったので、なじみの編集者に懇願されて懸命に書き上げたという感じがしないでもない。二匹目のドジョウ狙いの限界、といったところか。

それはともかく、有名な「ソーカル事件」(96年)について触れたくだりがある。この痛快な事件を知らない方はWikipediaでも参照してもらいたいが、事件のあらましをごくかいつまんで説明すればこういうことだ。
権威あるとされる評論雑誌にアラン・ソーカルという物理学者が論文を送ったところ、審査をクリアして見事掲載された。ところがこの論文は、著名なフランス現代思想家らの著作からのテキトーなパクリやパロディーをつなぎ合わせてもっともらしく構成された、全く無内容なシロモノだった。つまり編集者らはこの“論文”の内容を理解せず掲載を許可していたことがバレてしまったわけだ。
デリダやラカン、ドゥルーズといった当時流行の人文系の思想家が、さも難解そうな言い回しで無内容なことを意味ありげに綴った論文が有難がられている馬鹿げた状況を、その筋で権威ある雑誌を舞台に「王様は裸だ!」とばかりに徹底的におちょくってみせたのである。

で、ここではソーカルが、彼ら流行思想家の文章を皮肉まじりに批判したコメントが紹介されている。孫引きになるが、面白いので少し抜粋しよう。

この享楽の空間では、何らかの有界なもの、閉じたものを取り上げること、それはひとつの場所=軌跡であり、その場所=軌跡について語ること、それはひとつのトポロジーなのだ。私はトポロジーと構造の厳密な等価性を証明したと信じる。この等価性をわれわれの指針にするならば、ひとが享楽として語るものから匿名性を区別するもの、すなわち、法=権利によって規制されているもの、それは、ひとつの幾何学だ。幾何学は、場所=軌跡の不均質性である。つまり、他者の場所=軌跡があるということである。(ジャック・ラカン)

これに対するソーカルのコメント。

ラカンは、空間、有界、閉じた、トポロジーという4つの数学の専門用語を、それらの意味に配慮することなく使っている。少なくとも数学的に見れば、文章は全く意味をなさない。さらにラカンは、これらの数学の概念がどのように精神分析学にかかわってくるか、全く説明していないことに注目しよう。かりに「享楽」という概念に正確な意味があるとしても、それをトポロジーの専門的な意味での「空間」とみなしてよい理由は一つも見当たらない。



鏡像状態に引き続く統語論的操作において、主体=患者は彼の単一性をすでに保証されている。意味生成における「点∞」への彼の逃走は止められている。たとえば、通常の空間R3上のあらゆる集合C0 ――そこではR3上のあらゆる連続関数Fとあらゆる整数n>0に対してF(X)がnをこえる点Xの集合が有界なのだが――のことが考えられる。変数Xが「別のシーン」に引き退くとき、C0の関数は0に近づくのであるから、この圏において、C0におかれた主体=患者はラカンが言及し、彼が主体として自身を喪失する「言語の外なる中心」に到達しない。すなわち、トポロジーが環として指示する関数の群を表現する状況である。(ジュリア・クリステヴァ)

これに対するソーカルのコメント。

これは、クリステヴァが自分自身でも理解していない華麗な用語を用いて読者を圧倒しようとしている最高の例の一つだ。売り出し中の社会科学者へのアドバイスは、数学の教科書の難しくなさそうなところを書き写すことだった。だが、クリステヴァは関数空間C0(R3)の定義をきちんと書き写してさえいない。彼女の間違いは、この概念を知っている人には一目瞭然である。しかし本当の問題は、彼女の言う精神分析学への応用が全く無意味だという点だ。一体どうすれば、「主体=患者」を「C0の中におく」ことができるというのだろうか?

いやー、実に傑作ですね。




例によってまだ読了していないのだが、一つ役に立ったのは「人間原理」に関して自分が抱いていた微妙な思い違いに気付かせてくれたこと。
「弱い人間原理」は、この宇宙の中で「なぜこの地球という場所に自分は存在できたのか?」を説明する原理、「強い人間原理」は、無数にある可能的存在としての宇宙の中で「なぜこの宇宙に自分は存在できたのか?」を説明する原理だと思っていたのだが、やや違ったようだ。
いま存在する宇宙の物理法則を前提に、「いま、この場所に存在できているということは、必然的にその時間・場所にはそのための条件が整っているはずだ」と考えるのが「弱い人間原理」。それに対して、「そもそもこの宇宙に存在できているということは、宇宙自身が必然的にそのような条件にあらねばならなかったということだ」と考えるのが「強い人間原理」、ということらしい。ちょっと考えただけでは分かりづらい区別だが、実はかなり異なることを言っている。


あまり本の紹介になっておらず申し訳ないが、興味を持った方は読んでみていただきたい。

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コメント

コメント(10)
No title
ご紹介の本はともかく、学問をやっていて困るのは、やたら理論を使った概念規定を迫る査読者がいることです。構造主義を通った学者は必ずそれを要求してきますが、私は実証歴史学の分野で訓練を受けているので、余程自分の中で十分理解し、咀嚼していないと、理論は使いません。というか、使えない。「ブルデューを参考にせよ」とか突然言われても困るんですよね。ただ、学際領域にいますから、各ディシプリンの学としての収斂はどうしても必要なので、ただ丹念に史料を追っただけだと不十分というのはあります。

och**obor*maru

2010/05/11 22:36 URL 編集返信
No title
理論を使った概念規定とか、理論を使わないとか、どういう意味なのか私にはさっぱり分かりません(笑)

Jinne Lou

2010/05/12 01:47 URL 編集返信
No title
ズルッ(-_-;)。

概念規定は、要は定義付けのことです。歴史学の場合、一次資料を丹念に追い実証する手段をとりますが、ポストモダンなりの理論を援用して、議論を「それらしく」する方法もあるわけです。たとえば、「権力」という言葉を使った場合、フーコーに依拠するのか、ブルデューに依拠するのか。吉本隆明が詩の言語を分析するときに使ったのは、おそらくマルクスの下部構造・上部構造で、これもまあ理論です。で、理論を自分で良く理解せずに振り回した場合、衒学に近くなる危険があります。数学用語なんかでもそうで、ソーカルはそれを批判したわけでしょう。私がこの度書いた論文のどこにケチがついたかというと、タイトルに「国家意識」という言葉を使っているが、その概念規定が曖昧であるということでした。で、それは社会学者から出たもので、国語学者からは出てきませんでした。私の後輩が、ボードリヤールあたりをベースに紛争・暴力論を展開しようとしていますが、余程注意しないと、理論を振り回して、現実は一切引っ掻かない、机上の空論になる恐れがあり、事実かなりそうなる可能性が高いと思います。

och**obor*maru

2010/05/12 03:13 URL 編集返信
No title
そうか、なるほどー。全然分かりません
その筋の権威による定義付けがない言葉は使っちゃいけないんでしょうか。その点、数学や物理学は概念の客観的な定義が明確ですが、社会学なんかはもっともらしいことを言ったもん勝ちだから、ソーカル事件なんかが起こったんだと思います。

Jinne Lou

2010/05/13 01:57 URL 編集返信
No title
近代市民社会の文脈で「権力」を述べる場合に、フーコーやロールズを無視することはかなり難しいです。でも、それは学問の話だから、一般の人がどんな言葉を使おうが、そりゃ勝手ですが。ただ、こういうのは、あまり歴史学では問題にならないんです。歴史学は、一次史料に基づいて実証してこそなんぼの学問ですから。でも、私は国際文化学という学際分野に首を突っ込んでいるので、どうしても、フランス構造主義なんかを通った社会学者がわんさかいて、色々言ってくるわけです。歴史学者は、「弱い人間原理」「強い人間原理」などという発想はそもそもしないんですが、この原理を十分咀嚼して理解すれば、自分の論文に援用出来るかもしれないわけです。そこで、この二つの原理を、もうちくと、噛み砕いて、例など挙げて説明すると、どういうことを言ってるのでしょうか。そして、それがなぜ「弱い」「強い」と呼ばれなくてはならんのでしょうか。そして、その「原理」を知ることは、我々人間にとってどのような意義があるのでしょうか。まあ、この本を読みゃいいんでしょうけど。なんとなく「神学」と無関係ではないような気もするんですが・・・

och**obor*maru

2010/05/13 02:45 URL 編集返信
No title
「強い人間原理」は「弱い人間原理」よりも踏み込んだ、より強い内容を含んだことを言っているからです。
われわれのような知的生命体が存在するにはおそろしく膨大な条件をクリアせねばならなかったわけですが、逆に言えば自分自身を認識するだけの知的な主体が現に存在するということは、その時その場所にはそれだけの条件が整っていることは必然です。ここまでが「弱い人間原理」。これは大抵の人がうなずけるでしょう。
さらに、仮にいろいろなパターンの世界が存在するとして、知的生命体を生み出すだけの条件が整っていない世界では認識主体も存在しないのだから、その世界は存在しないも同然。つまり世界には知的生命体が存在することが必然なのだとする主張が「強い人間原理」です。ここまで言いきると賛成しかねる人も出てきそうなので、「強い~」と呼ばれています。
あくまでも私の理解ですが…。

Jinne Lou

2010/05/13 03:11 URL 編集返信
No title

Jinne Lou

2010/05/13 03:12 URL 編集返信
No title
うむむ、なるほど。なんとなく、形式論理学というか、認識論のレベルでもそういう話はありますね。これを、人文科学に応用する人間がいてもおかしくない。

ちなみに、理論を使うということが不明ということですが、現代の歴史教科書なんぞで使われている時代区分法は、マルクスの史的唯物論に基づく発展段階論がベースです。その是非はともかく、歴史を曲がりなりにも「法則化」して説明したのが史的唯物論ですから。「論」というからには、これも一種の理論なわけで。「最近の若者は近現代史を学ばない」などと言いますが、「近現代史」という言葉の背後にも「理論」が介在しているわけです。

och**obor*maru

2010/05/13 08:57 URL 編集返信
No title
あ、それから、ご指定のWikiを見てみましたが、ちと情報不足のようです(-_-;)。この新書は、前のやつの続きみたいですから、そちらも読んだほうが良いんでしょうね。

och**obor*maru

2010/05/13 19:18 URL 編集返信
No title
>NANAMIさん
なるほど。ブルジョア革命が起き、資本主義が発展し、やがて行き詰まり、共産主義革命に至るというのは一つの理論ですが、中世、近世、近代、現代などという区分もそれと関係あるんでしょうか。

人間原理についてはこの本ではちょっと触れられているだけなので、こちらの本のほうがより詳しいと思います。
http://www.7netshopping.jp/books/detail/?accd=30736722
「論理学入門」というタイトルはついていますが、内容は半分くらいが人間原理の解説という変な本です。

Jinne Lou

2010/05/14 02:01 URL 編集返信
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